灰 ―HAI―

端緒としての象徴(なんでもないもの) ―8月30日―

福神漬けを添えたカレーなのか、カレーに添えられた福神漬けなのかわからなくなるほどに、彼女のカレーは真っ赤だった。福神漬けを作った人も決してこのような食べ方を推奨しないと思うのだけど、だからと言ってそれが法に触れるわけではない。犯罪的に醜悪な見た目になってしまったカレーは、しかしまだぎりぎり犯罪ではなかった。
「おいしいかい?」
「おいしいと思うのか?」彼女はなぜそんなことを聞くのかといわんばかりの顔をした。「学食のカレーをおいしく感じられるようになったらいよいよ終わりだという気がするな」
 おいしくないのはカレーと福神漬けのどちらなのかを訊ねようとして思いとどまった。どうせ返答は両方に決まっている。決まっていることを省略しつづければ人類はきっと滅亡するに違いないけれど、何もかも省略されない世界でわずらわしさにわずらわされていきるよりはそっちの方がよっぽど幸せだろう。
「なにが終わる?」
「知ったことか」と彼女はスプーンに持ったカレーと福神漬けをほおばった。それは女の子らしくない食べ方だったけれど、不思議と下品にも無作法にも見えなかった。「なにかが終わるんだ。そして、何かが終わることはたいていは良くないことだ」
「それは偏りすぎている」
「だからどうした」
 彼女は美しい瞳を攻撃的に細めて、向かいに座っている僕を見た。それはなんだかライオンがシマウマを見る目に似ていて、さらに赤ん坊が母親を見るような目にも似ていた。そういう反則的な矛盾を飲み込んでなお平然としている彼女には、福神漬けが似合う。
 しばらく彼女は無言で食事を続けていた。辛いのが苦手なのか、頻繁に水を飲んでいる。もはやカレーを食べる合間に水を飲んでいるのか、水を飲む合間にカレーを食べているのかわからないほどだった。彼女はすべてを曖昧にする。
「おう」と彼女の後ろから誰かが肩を叩いた。「なにしてるんだ」
「食事をしている以外に見えたら奇跡だ」と彼女は振り向かずに言った。「眼科で奇跡を駆逐してもらえ」
「嫌だね」と彼は言った。「奇跡は保護されるべきだ」
 客観的に見て彼はすごく爽やかで整った顔立ちをしていた。感じもすごくいい。何気ない動作に気配りがあって、自信があった。自分が格好いいことを知っていながら、それをあまり他人への圧迫にしたくないと考えているタイプの人間だろうと思った。彼は彼女の後ろに立ったまま、一心不乱にカレーを咀嚼する彼女の姿を見ていた。その瞳には慈愛の精神が溢れていて、ああ、この人はきっといい人なんだと僕は思った。
「いつまで立ってるんだ?」と彼女は隣の椅子を引いた。「用事があるなら座ればいい」
「そのつもりだったけど、遠慮しておく」と彼は笑った。「今はそこの彼と食事をしているんだろ?」
「いや、構いませんよ」と僕は言った。「お気遣いなく」
「こちらこそ」と言って、彼は立ち去った。
「変な奴だ」カレーを食べ終えた彼女はコップに入っていた水を飲み干して言った。「頭がおかしいに違いないな」
「まったくだね」と僕は同意した。「ところで、彼は?」
 ふむ、と彼女は頷いて、僕のほうを見た。僕はまだ半分残っていた自分のカレーを彼女のほうに押しやった。
「世間一般で言うところの」と彼女は僕のカレーにスプーンを差し込みながら言った。「恋人だな、わたしの」
 返答は意外ではなかったので僕はやっぱりねという顔をした。彼女は無表情のまま淡々とカレーを食べ続けた。
「ところで」と不意に彼女が顔を上げた。「ひとつ訊ねたい」
「なに?」
「おまえに、恋人はいるか?」
「いないね」と僕は即答した。「二週間前からいない」
 僕を振った彼女はそこそこ可愛かったし、性格も良かった。たぶん僕たちの相性も悪くなかった。だけど別れた。出会いにも別れにも分析すれば原因はいろいろあるから「どうして別れたのか」なんていう無意味な質問は彼女はしないし、聞かれても僕はきっと無視する。
「ほう」と相づちを打って、彼女はカレーを完食した。
「僕からもひとつ質問がある」
「ダメだ」と彼女は言った。「今はそういう気分じゃない」
「ほほう」と僕は言って、カレーの皿に目を落とした。
 彼女は二回くらい瞬きして、天井を見上げた。「気が変わった。聞いてやる」
「名前は?」
「石田」
「意外と平凡な名前なんだね」と僕は言った。「もっとエキセントリックな名前なのかなと思っていた」
「たとえば?」
「山田」
 ふん、と彼女は鼻を鳴らした。それから壁にかかっている時計を見た。つられて僕も時計を見た。文字盤の上で長針と短針が不毛な追いかけっこを続けていた。滅びればいいのに、と僕は思った。時計なんて、この世界から全部。
「そろそろ出るぞ、山田」と言って彼女は立ち上がった。
「ちょっと待って」と僕は言った。「ふたつほど指摘がある」
「なんだ?」と彼女は心底めんどうくさいといわんばかりに眉を寄せた。「さっさと済ませろ」
「だいいちに、次の目的地が分からない」
「昼寝だ。昼寝をすると言ったのはおまえだ」と彼女は僕の手を引いた。「ついてこい、山田」
 彼女に手を引かれながら、山田ではない僕は第二の指摘をするタイミングを逃がしたことに気がついた。
 こうして、石田さんは僕を山田と呼ぶようになった。

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