「どういう事よ、それ……」
夕暮れ時の、公園。
民家が、遊具が、町の全てが夕彩に没していた。眼球にまでしみこんで来るかのような、圧倒的な緋色。
「聞こえなかったのかよ」
悔しかった。悲しかった。
悔しくて悔しくて、握った拳が震えて。悲しくて悲しくて、堰を切ったように涙がこぼれた。
「多分、もう会わねぇ」
彼は煙草をふかしながら言った。それは私が大好きだった仕草。
「じゃあな」
私に背を向けて、彼は行った。
もう、私のために戻ってくる事はない。
翌日、私は最悪な気分で目覚めた。
カーテンを開ける。初夏の朝日が、私を元気付けるように差し込んだ。そんなの、今の私には邪魔でしかない。澄んだ青空も、限りなく澱んだグレーに見える。
「最悪……」
新しく入れたコンタクトも、最近カールをかけてみた長い茶髪も、もう全部無意味。
捨てられた女。
よく聞く言葉だけど、実際に身をもって体験するとこれほど嫌な響きは無い。
今日は大学もさぼって一日中引きこもろうかな。そう思ったときに、その無遠慮なノックの音は部屋に転がり込んだ。
「もう、誰よ……。ていうかインターフォン鳴らしなさいよ……」
今は誰にも会いたくない。追い返してやろう。
「どちらさまですか……?」
返事は無い。乱暴なノックの音が耳障りだ。
無性に腹が立ってきた。扉を乱暴に開け、怒鳴る。
「近所迷惑です! 帰ってくだ、さ……?」
言葉が途切れたのは、ヒステリックに怒鳴った自分を恥じたからではない。
そこに居た人間が、余りに奇妙だったからだ。
黒のビジネススーツを着て黒のハットを被り、ビジネスバッグを傍らに携えたその男。
長身で脚も長く、瞳は色素の薄いくすんだ灰色。肩幅が広く、着込んでいるのにしっかりとしたガタイを感じさせた。
「失礼。こうでもしないと出てくれそうに無かったので、ね」
なにが「ね」だ。初対面の癖に。人が失恋して落ち込んでるって言うのに。
「そこで貴方におすすめするのが――」
セールスマンかよ。
「……お引き取りください」
今出来る限りの冷淡な声を放ち、ドアを閉めようとした。のだが。
「うわっ、ちょっと……」
変態セールスマンは私が閉めようとしたドアのふちに指を引っ掛け、その腕力で強引にこじ開けた。常識の枠を微妙に飛び越えた行動に、私は怒鳴るでもなく、ただただあ然とした。ある種、感心していたと言っても良かった。
「いやぁ、まさかセールスマンに間違えられるとは思いもしなかったもので。まだうら若き女子大生なんですから、そんなに怒らないで」
頭からハットを取ってその男はのんびりとした口調で言った。
しかも女子大生って、何故か当たってる。なんだか思考を読まれたみたいで腹が立つ。
癖の無い黒髪は肩まで伸ばしてあった。背が高いから私が見上げる形になってしまい、余計に腹が立つ。というか私、今は何もかもに腹を立てているのだけど。
男は親指と人差し指を顎に当て、何か考え込むような仕草を見せた。目を伏せていても、そのく双眸はじっと私を射抜くように見つめている。
そして放った言葉は。
「ふむ……。貴方、失恋しましたね?」
その一言で私の怒りは軽く頂点に達し、限界点を突破した後に弾丸のごとく眼前の男に炸裂した。
「帰れっ!」
セールスマンの胸を思い切り押し、外に突き出す。マンションの住民が文句言ったって知るもんか。絶対にもう部屋には入れない。
「あーもう腹立つ……」
玄関に背を向け、ソファーに身を投げ出す。間も置かず、セールスマンと話していた間に出し損なった涙が一気にあふれ出てきた。
「陽一ぃ……」
口からこぼれたのは彼の名前。ほんとに好きだったのに。悔しい、悲しい。私の何がいけなかったのか。なんで、なんで――
「泣いていては、明日に進めませんよ」
「うわっ?」
いつの間にか、さっきのセールスマンが部屋に侵入していた。音も気配も全くしなかった。まるでずっと前からそこにいたかのように、悠然と立っている。
「ちょっ……、帰ってください。通報しますよ?」
「ご自由に。ただし私の話を聞いてからにして下さいね」
そう言ってセールスマンは、図々しく私のちゃぶ台の前に座った。陽一と二人で囲んだ机。見ず知らずの男に座らせたくない。
そこまで思考して私は――なんだかもう、全てがどうでも良くなった。それは脱力感であり、虚無感。心に空いた穴に空虚な風が吹くようで、ひどく空しい。
話も聞いてやろうかな。私にはもう、失う物なんて何も無いのだから。
「……わかったわ。話を聞くからとっとと済ませて」
「御意」
そして、セールスマンの話が始まった。
「ではまず、私の名前からですね。これ、どうぞ」
そう言ってセールスマンは一枚の名刺を取り出した。白地に黒字の縦書きで、『明日の贈呈者〜トゥモロー・プレゼンター〜』と書かれている。
「ださ」
吐き捨てるように言う私を無視して、セールスマンもといプレゼンターは話す。
「まぁ、何故私が貴方を訪ねたのか。端的に申し上げますとですね」
絶対に返事はしない。ただ、聞くだけだ。腹を決めた私があからさまに無愛想な態度を取ると、プレゼンターは困ったような仕草を見せて。
「……“明日”を買って頂けませんか?」
“明日”。
おおかた、『あなたに明日を呼ぶ幸運のネックレス』だの『あしたにむかって』なんてくっさいタイトルの詩集だの自己啓発本だの、そんな物だろう。
「は? 日本語おかしいよあんた」
私が思い切り睨みつけて言うと、プレゼンターはにこりと笑って。
「しましたね、返事」
「え」
また、思考を読まれたらしい。
なんなのよこいつ。人の気持ちもわからないで、心の中に土足で踏み込んで。
「ちょっといい加減にして。わざわざお金出してまで胡散臭いペンダントだのイタい詩集だの買うはず無いでしょ。老後のおばあちゃんとか押しの弱いひきこもりとか――とにかく他を当たってちょうだい」
私は、怒ると良く舌が回る。友達にも親にも言われたし、陽一も良くこの私の癖を笑ってくれた。そんな事を、あろう事かこんなタイミングで思い出してしまって、また泣きそうになる。自己嫌悪。
「現金は頂きません」
「はぁ?」
突拍子も無いその一言に、飲み込もうと必死だった涙も忘却の彼方にすっ飛んで行った。こいつはどこまで人をバカにする気だ。大体そんなの、そもそも商売が成り立たない。まぁ、売る物からして商売できるとは思えないのだけど。
「その代わりにですね、貴方の思い出の品を頂きます。それを代金と代えさせて頂きますよ」
ふぅん、思い出の品……。例えば?
表情に出さずに思考してみると
「そうですね……、写真か何かでも良いですよ」
断言できる。こいつ、絶対に私の思考を読んでる。
私は無言でその場を立つと、棚に飾ってある写真立てを取って机に戻った。写真立てのガラスの向こうでは、私と陽一が浴衣姿で幸せそうに笑っている。それは夏の一欠けら。今はもう、不要なはずの思い出。
私は中からその写真を取り出した。
「こんなのでよけりゃ、くれてやるわよ」
指で弾いてプレゼンターの方に飛ばす。するとプレゼンターは満足げに微笑んで。
「ありがとうございます。これで貴方は明日へ進めるでしょう」
「どうかしらね」
変質者に写真一枚渡すだけで、何かが進展するなら安いものだ。下らない。
「では、良い明日を」
そう言った次の瞬間、プレゼンターの姿はその場から消えた。でも不思議と、疑問には思わない。余りにもな非常識を目の前にして、感覚が麻痺してしまったのかも。
「ホンット有り得ない……」
あらゆる感情をこの一言に詰め込み、私はソファーに寝転んだ。
◇
翌日、何故か私は爽やかな気分で目覚めた。理由はわからない。
陽一と別れたことを思い出しても、不思議とマイナスの感情は生まれない。今なら、これまでの嫌な思い出を片っ端から消化する事もできそうだ。
ベッドから出て、パジャマを脱いで私服を選んで着替える。いつも無意識に行っているこの動作さえも、何故だかとても幸せな事に思えた。
空色のカーテンを開けると、爽やかな初夏の朝日が私を迎え入れてくれた。空は雲ひとつ無い青空で、じっと見ていれば吸い込まれてしまいそうな錯覚さえ覚える。
「んー、最高っ……!」
大きく伸びをしながら一言。かつて私の人生で、これほど爽やかな朝があっただろうか。
どうせなら新しい事も始めてみようか。ティラピスとかアロマセラピーとか。ペットも飼ってみようかな。私は猫派だから、アメリカンショートヘアなんか可愛くて良いかも知れない。
時計を見てみる。時刻は六時半。まだまだ大学までの時間はたっぷりある。
私は手早く着替えて、洗面台で顔を洗った。自分でも不思議なくらいに顔色が良い。
ノーメイクだけど、まぁ良いか。
私はマンションの階段を駆け下りて、玄関を出た。十何年ぶり――産まれて始めたかもしれない――かの朝の散歩。
思い切り両手を広げて、初夏の朝日を堪能する。気持ち良い。今なら小枝で羽を休める小鳥とも話が出来そうだ。
マンション玄関前の階段。その一番下の段で、私は立ち止まった。なんだか敷地外に出るのが新しい一歩のような気がして。
そして私は
その一歩を、ゆっくりと踏み出した
◇
そのマンションは、近隣の建物の中では最も高い建造物である。五階建てで、屋上からは東京タワーの先端がわずかに見え、天気の良い日は富士山が覗いたりする。。
下界とを隔てるのは高い柵ではなく三十センチメートルほどの段差だけという危険な場所で、マンションの住民さえも自由には立ち入れない場所だった。
「それで良いんです」
下界を眺めながらそう呟いたのは、そんな屋上の段差に腰掛ける男だった。彼は満足げに、彼女がスキップでマンションの前を駆けていくのを見下ろしていた。
男はこの陽気の中ビジネススーツを着込み、紳士帽を被っている。瞳はくすんだ灰色でつやの無い黒髪を持っていた。長い脚は空中に放り出されていて、非常に危なっかしい。
「明日とは自分で前進し、切り開いて変えるものですよ。そして――貴女の思い出もね」
男はそう呟くと、ふところから一枚の写真を取り出した。浴衣を着たカップルが幸せそうに笑っている写真。
男は人差し指で写真のふちをなぞると、写真を投げて宙に放った。写真はしばらく空中を漂ったあと、よく出来た手品のように瞬間的にその姿を変えた。
空中に浮かぶ、人の姿に。
その容貌は、長身でがっしりとした体型。脚は長く、瞳は灰色でハットを被り、ビジネススーツを着込んでいる。そして傍らにはビジネスバッグが。
「よろしくお願いしますよ。三十四代目」
屋上の男の言葉に、空中に浮いている男は深々と首を下げた。そしてそのまま無言で屋上に背を向けると、両手を広げて滑空するかのような姿勢をとった。
「それでは、行ってきます。三十三代目」
背を向けたままはっきりとした口調で空中の男は言い、まっすぐ蒼穹に吸い込まれていった。
「さて、私の役目も終わりましたね」
彼は遠ざかる男の影が見えなくなるのを見届けると、脚を戻してゆっくりと立ち上がり、屋上に放ってあるビジネスバッグを持ち直した。
背筋を伸ばして虚空を見すえ、
「“贈呈、完了”」
ささやくように、そう言った。
次の瞬間、彼の姿はそこから掻き消えた。代わりのに古びたくまのぬいぐるみがどこからか現れ、コンクリートの地面に落ちてころころと転がっていく。
それは他でもない、プレゼンターの姿であった。